このコラムは,『春秋』(2017年7月号,8/9月合併号)に連載した内容に,リンクをつけたり加筆修正したりして,さらにイントロを書き足したものです。 

言語が減ることって問題ですか?

私は言語学者である。琉球列島の言葉を専門にしている。

下地理則の研究室

冒頭の問いは,これまで何十回も,話者の人たちから,学生たちから,講演会での聴衆から,そして同業者たちから,投げかけられた問いである。同じような問いをされた言語学者も多いと思うし,自問している人もいるだろう。だから,この問題に対する私なりの回答を書き留めておくのは意味があることだと考えて,コラムにすることにした。

かなり前からのことではあるが,とりわけ21世紀に入って,言語学の世界では言語の消滅危機が大きな問題になっている。以下で述べるように,世界には7000近くの言語があるが,これが今世紀中に,50〜90%消滅する可能性がある。

さて,ここで,冒頭の問いである。言語の消滅は,何か我々にとって問題なのだろうか?この問いに対して,大体3つの観点から「問題だ」と考える立場がある。

観点1: 科学者の視点

言語学は,人間(ヒト)を考察対象とする人間科学とよばれる分野に属する。ヒトの重要な特徴である「言語」とは何か,という問いに対して答えを見つけていく学問である。だから,観察対象となる7000の個々の言語たちがなくなってしまうと困るのは当然である。このような意味で,言語の消滅が問題だ,という理屈は,科学的な観点から至極当たり前で非常に分かりやすい。

私はまずこの観点から問題意識を持って,琉球列島の言語を,そして最近では九州の方言を,研究している。私にとって,例え1つの県や地方にある微細な方言差も見逃すことはできないもので,それぞれが等しく独自の言語である。

しかし,別の観点から,言語の消滅を問題にする人たちも多い。

観点2: 消滅危機言語話者の視点

言語が消滅しつつあるということは,ある土地で,それを話す人たち(民族)の記憶から言語が消滅しつつあるということである。典型的には,言語が継承されないということでこの状況が生じる。その言語を操る世代が高齢化し,若い世代は別の言語を話すようになるのである。以下のハワイ語の例など,わかりやすい。

NHK BS1 ワールドウォッチング「キャッチ!世界のトップニュース」〜2020年4月6日より〜

https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/catch/archive/2020/04/0406.html

さて,こうして言語は上の世代とともに消えていくが,その土地と,その土地に暮らす若い世代は,「この土地に暮らす我々」という自我意識(アイデンティティ)を言語以外の何かに求めながら,生きていくことになる。それまで当たり前に存在していた,言語という,アイデンティティの重要な一部が消えてしまうのである。

消滅危機言語とは無縁だと考えられている多数派の人たちにとって,例えば日本で日本語を話している私たちには,少数言語話者たちのアイデンティティの喪失が大きな問題であると言われると,少し説教くさく聞こえて,そもそも実感が湧かないかもしれない。でも,以下を想像してみて欲しい。

あなたが東京などの大都会で暮らす地方出身者だとしよう。帰省で久しぶりに帰る地元で聞かれる方言にホッとする瞬間があるだろう。しかし,帰った地元でも標準語しか聞こえなかったとしたら?

あるいは,留学や転勤などで海外で暮らす日本人なら,久しぶりの日本で(または当地で偶然に)日本語を聞いたときのあの安心感を思い出して欲しい。日本人がほとんどいないような土地で,たまたま日本語を話す人を見かけたら,同じ言語を話すというだけで,話しかけてみたくなるかもしれない。これは,日本語の使用が禁止されているのと類似の状況に身を置くことでわかる「母語のありがたさ」である。

言語があなたのアイデンティティの一部をなすとか,言語でつながりを保つ,とはこういうことなのである。個々の人間は,物理的には孤立して存在している(あなたの皮膚と別の人間の皮膚の間には空間があるという意味で)。しかし,言葉とは不思議なもので,これを通して,「同じ奴ら」という連帯感が生まれるのである。しかも,同じ言語を話す集団があまりに大きくなるとダメで,ある狭い範囲でしか通じないものでなければならない。「あいつらとは違う言葉を話す俺たち」という絶妙な連帯感が,私たちを安心させ,お互いの絆を深めるのだ。

上で引用したハワイの事例では,ハワイ人としてのアイデンティティを模索していた若い世代が,ついに,「我々の言語」を取り戻そう,という運動を起こし,言語の復興を目指すようになったのである。これは驚くべきことではないか。英語という,世界の誰とでも繋がれるはずの言語を話す若者たちが,わざわざ,ハワイ人だけの間で通じるコミュニケーション手段を欲するのだから。でも,アイデンティティという観点からすれば,至極当然の行動だとわかる。

観点3: 世界の「我々」の視点

少数言語には,その土地に根付いた人間たちの苦闘の記憶や知恵が詰まっており,それを失うのは「人類共通の財産としての知のアーカイブを消失する」ようなものだ,という人がいる。そしてこれは,上で見た2つの観点,つまり科学者の視点と,話者自身の視点とは異なる視点であって,「世界の我々(多数派の言語を話す人たちを含む世界全体)にとって問題だ」という観点だとも言える。だからこそ,この観点から「消滅危機言語が消えることは問題なんですよ」と説くのが最もわかりやすく,インパクトがある。事実,以下に引用する一般向けの雑誌『Wired』(日本版19号)では,上の2点に加えて,この第3の観点が紹介されている。それによると,ある少数民族の言語には,人間にとって有益な植物(薬を作るのに必要な植物)とそうではないものの区別があって,この知識が,製薬の現場でも役に立つというのだ。

1940年代、アマゾンでフィールドワークを行うなかで、シュルテスはクラーレ[南米一帯に伝わる毒物]の原料を特定した。その派生物であるd-ツボクラリンは、パーキンソン病などに関連する筋肉障害の治療に使われている。彼の教え子で現在はニューヨーク植物園の資源植物学ディレクターをつとめるマイケル・バリック、ワイオミング州ジャクソンホールにある民族医療研究所のエグゼクティヴ・ディレクターをつとめるポール・アラン・コックスは、その調査を引き継ぎ、「民族植物学の創薬へのアプローチ」について説得力のある論文を書いている。それは一言で言うと、シャーマンとヒーラーが案内するフィールドワークである。

サモアでコックスが発見したのは、ポリネシアの薬草医は土地固有の病気についての膨大な用語をもつと同時に、ヨーロッパ人から伝えられたものについてはまた別の異なる用語をもっているということだった。この高度な知識は彼らだけに見られるものではない。絶滅危惧言語では、植物相と動物相に関して、西洋科学で知られているより何百種類も多い分類がされていることがよくある。フィリピンのミンドロ島に住む焼畑農業をする部族、ハヌノオ族は、土の種類について40の表現をもっているし、東南アジアでは、森に住むヒーラーが6,500種類もの薬効成分を特定している。

1950年代、Eli Lilly and Companyの創薬研究員は、数大陸でニチニチソウを使った糖尿病の民間療法を調査し、ホジキン病の化学療法に使われるヴィンブラスティンという有効成分を単離した(研究者を発見に導いたヒーラーたちはまったく利益を得られなかった。このような製薬会社による「バイオ・プロスペクティング〈生物資源探査〉」はのちに議論の的となるが、1993年までほとんど規制されていなかった)。キニーネ、アスピリン、コデイン、トコン、プソイドエフェドリンなどは、コックスとバリックによれば、先住民族に案内、情報提供された民族植物学者のおかげで一般的な治療薬となったのである。

『Wired』日本語版19号「たったひとりのことば──絶滅する言語と失われゆく「世界」」より一部抜粋(https://wired.jp/special/2016/loss-for-words/)

このような言説はとてもキャッチーで,具体性があり,確かにそうかも,と一瞬思わせるパワーがある。だからこそ,Wiredのような一般向けの雑誌でも大きく取り上げられるのであろう。

しかし,私は,この第3の観点に大いなる違和感と,大いなる危惧を感じている。一言で言えば,こういうことである。ある言語が人類全体の役に立つからその消滅が問題だ,というロジックは,実は少数言語を消滅に追いやってきたロジックそのものである。私は,消滅危機言語をめぐる問題の本質は,まさにこのような,役に立つかどうかで存立の価値が論じられる現代社会のロジックにあると考えている。それを詳しく考えるために,以下のコラムを書いたのである。

前置きがとても長くなったが,これが,以下のコラムの「イントロ」である。

消えて行くコトバ,消えて行く私たち(上)
(『春秋』2017年7月号)

言語は死ぬ

うだるような暑さの中,老人は顔の汗をぬぐいながら,やれやれといった表情で言った。

“nkyaanna, mmya, smafc azzaba daiz atarruga, nnamaa vvankai, sinsiinkaidu naraasadaka naran. pinnamunui.”
「昔は,自分たちの言語を話せば大変なことになっていたけど,今はお前に,学者様に,教えないといけない。奇妙だ。」

この言語は,Iravc(イラヴツ)という,話者2000人前後の言語である。私は現地に出かけて,この言語を記録し,その文法や音声を研究しているフィールド言語学者である。あとで詳しく述べるが,この言語はおそらく20年のうちに消滅する可能性が高い。この言語を話す人がいなくなってしまうからである。なぜ,こうなってしまったのか。老人が言う,自分たちの言語を話すことで生じた「大変なこと」とは何なのだろう?

本稿では,2回にわたって,今ひそかに,しかし圧倒的な勢いで進む「言語の消滅危機」の問題を報告してみたい。言語が消滅する,とはどういうことなのか?なぜ絶滅するのか?そもそも,言語が消滅することは問題なのか?少数言語の消滅は,日本に住む我々にとって関係があるのか?こうした問いに,できる限り具体的に答えてみたいと思う。

言語はいくつあるか

ワッポ語という言語がある。この言語は1990年に消滅した。最後の話者の名前もわかっている。ローラ・サマーサルという女性である。アメリカ合衆国で話されていた言語である。

2010年1月26日,ボ語という消滅危機言語の最後の話者が息を引き取った。インドのアンダマン諸島で話されていた言語であった。このニュースは,AFP通信のインターネットニュースにも配信されていた。

カナダ・ブリティッシュコロンビア州の先住民の言葉であるNuu-chah-nulth語はいくつかの,互いに大きく異なる方言からなる。すべて消滅の危機にあるが,最も深刻なNuchatlaht方言に関する取材記事が私の手元にある。2011年の記事である。この方言の最後の話者として,アルバン・マイケルさん(84歳)という方が紹介されている。2016年2月,彼が他界したとの記事がインターネット上に配信された。つまりこのとき,この方言は消滅したのである。

現在,世界には6,000かそれ以上の言語が存在すると言われている。信頼できる予測のいくつかによれば, 6,000以上ある言語のうち、今世紀末までに楽観的な予測では約半数が、悲観的な予測ではなんと90%もの言語が消滅すると考えられている。つまり,100年で半減かほぼ全滅するという計算である。上で見たような言語の消滅の事例が,今後激増していくということである。

では,100年前に言語の数が今の倍あったかといえば,そうでもないらしい。さらにさかのぼって,1万年前(つまり,新石器時代がはじまる直前)でも,3,000から10,000だという。今とたいして変わっていない。一方、今後はたった100年で、言語が半減か全滅寸前という勢いで急減していくことが予測されているのである。ジェットコースター並みの急降下である。

言語はどのように減っていくのか

言語はどのように消滅していくのだろうか?典型的な例を挙げよう。ある地域に少数言語(現地語)がいくつも存在しているとする。それぞれの集団の経済サイクルが独立している限り,この状況は安定する可能性が残されている。しかし,ひとつの国に押し込まれた場合,どうなるか。多くの場合,これらのうち1つが,有力な言語(威信言語)として選ばれるか,あるいはまったく別の威信言語がこれらに覆いかぶさることになる。学校教育が威信言語でのみ行われ、威信言語の獲得こそが経済的成功の基礎になってくる。また、テレビやラジオ,新聞,雑誌など,マスメディアが威信言語のみを使用すれば、威信言語の文化的な地位も確立する。威信言語の一人勝ち状態が,人工的に生み出されるのである。

こういう社会状況では、好むと好まざるとにかかわらず,現地語の話者たちは子供に威信言語の積極的な獲得を奨励するだろう。ここでカギを握るのは家庭での言語選択である。親(や年上の兄弟姉妹)が、家庭内で子供に威信言語で話しかけるようになれば、子供が現地語を学ぶ機会が失われるからである。

かろうじて家庭で現地語が維持されていても、その地域に経済的成功の展望がなくなり,進学や就職のために都市部に出ていく必要がある場合には、村を出て行った若者世代から言語の継承が分断され、その世代の子の世代になれば完全に継承がストップするだろう。村では現地語の話者の高齢化が進み、現地語は人知れず死滅していくだろう。

日本の危機言語

このシナリオを,アマゾンかどこかの秘境で起こっている他人事だととらえないでほしい。日本国内では,北海道を中心に話者を有するアイヌ語が比較的よく知られた消滅危機言語である。しかし,それだけではないのである。

今述べたことのうち、「威信言語」を標準語に、「現地語」を方言に置き換えて,もう一度読み直してみよう。あなたが地方出身者なら,あなたの方言もまた,消滅の危機にあることが実感できるはずである。我が国でも,消滅危機にある方言-消滅危機方言-が問題になっているのである。実際,東京の立川市にある国立国語研究所という機関には,消滅危機方言の問題を専門に扱う研究ユニットがあり,研究者たちが,危機方言の記録と保存に携わっている。文化庁も,消滅の危機にある方言に関する取り組みを積極的に行っている。研究者たちは,日本の方言の消滅は「待ったなし」の状況にあると考えている。

日本でもとりわけ,すさまじい勢いで方言が消滅に向かっている地域がある。沖縄県と鹿児島県(奄美群島)にまたがって分布する琉球列島である。

冒頭の老人が話しているIravcという言語は,実は日本国内で話されている,一般には沖縄方言と言われるものの1つある。沖縄本島から南西に300km, 宮古群島の1つを構成する伊良部島,と言われれば,沖縄好きなら聞いたことがある島かもしれない。2015年,無料の橋としては全国最長の橋が宮古島と伊良部島を結び,それでも話題になった。伊良部島は現地の言い方でIrav「イラヴ」(イラウのようにも聞こえるほど,vが弱く発音される)。伊良部島の方言のことを,現地の言い方ではIravc「イラヴツ」という。これは,Iravという地名に,「口」を表すfc「フツ」という語がくっついた表現)だ。沖縄方言を,よくウチナーグチというが,この「クチ」は,言語も表す。言語が口から出てくるからだろう。

伊良部島方言の音声を聴いてみる

伊良部方言は,私の父の故郷の言葉である。私は沖縄本島で生まれ,父の方言である伊良部方言も,母の方言(そして,私の地元の方言)である沖縄本島の方言も全く話せずに育った。私は今,40代前半だが,私の世代は,父母の世代まで続いた方言(これを伝統方言と仮に呼ぼう)の継承が分断された世代である。もちろん,人によって,伝統方言を聞いて理解することができる人もいて,少しなら話すこともできる人もいる。私の場合,聞くことも,話すこともできなかった。かつて伝統方言だけで生活できていた沖縄では,このように伝統方言が継承されず,消滅の危機に瀕している。上でみた言語消滅のシナリオが,この地で起こっていたのである。

標準語励行と方言の死滅

かつて,標準語励行という名のもと,方言を排除していく政策が沖縄の各地で行われ,その政策は大きな「成功」を収めた。沖縄では,戦前から1950-60年代くらいまでに小学校にいた世代(現在の60代くらいまで)の人であれば,「方言札」と呼ばれる,教室での方言使用に対する罰則のシステムを知っているか,あるいは実際に経験している。方言札の使用にはさまざまなバリエーションがあるが,典型的なパターンは以下のようである。生徒が学校で方言を話すと,方言札を首からかけさせられる。生徒自身が次に方言を話す生徒を見つけ,その生徒の首に方言札をかける。このような,悪趣味な相互監視のシステムである。

標準語励行を経験した世代は当然,方言を「歓迎されないもの」「話してはいけないもの」「話すと大変なことになるもの」と感じるようになる。実際,本稿冒頭の老人のセリフは,この方言札のことを指していたのである。冒頭の老人のように,そして私自身の両親のように,方言をスティグマ化した世代は,自らの意志で,次世代(具体的には自分の子供)に,方言を使うことをやめるようになる。

私の世代の次の世代には,ほぼ確実に,伝統方言は継承されることはないであろう。沖縄の伝統方言の話者は,私たちの世代で珍しく話せる少数の者と,私たちの父母の世代を残すのみとなったのである。あと20年もすれば,伝統方言の話者はほとんどいなくなるということだ。つまり,沖縄の伝統方言は,あと20年程度で死ぬ。

日本各地で起こっている方言の死滅

伝統方言が消滅の危機にあるのは琉球列島だけではない。日本各地で,伝統方言が急速に失われつつある。過疎化している地域では,伝統方言の継承は容易にストップする。私がここ数年調査している宮崎県椎葉村は,日本三大秘境の1つといわれる,山深い集落である。この地の方言も,過疎化・高齢化とともに,いま消滅の危機にある。

災害もまた,方言の危機につながることがある。2011年3月11日の東日本大震災がその典型例である。東北では,震災が起きる前からも,もちろん過疎化・高齢化は進んでいただろう。しかし,震災をきっかけに,若年労働者とその家族は,仕事を求め,安心できる生活を求め,全国に流出していく速度があがっている。コミュニティの崩壊とともに,伝統的な東北方言の継承が分断されるきっかけとなるのである。このように,東北では,沖縄とは違った時代に,違ったことがきっかけで,方言の危機が生じている。

言語が減ることは問題か?

ここまで,消滅危機言語・方言が存在すること,そして,言語や方言がなぜ消滅するのかということを,駆け足で述べてきた。日本は消滅危機言語と無縁な国ではない。むしろ,アイヌ語や琉球語をはじめ,全国に存在する多様な方言が,今消滅の危機にあることが分かったと思う。

ところで,言語や方言が減ることは問題なのだろうか?むしろコミュニケーションがとりやすくなっていくのではという素朴な疑問が生じる。確かに,言語多様性は経済成長や国家統一にとって厄介なもので,だからこそ,国は威信言語に統一させようとあれこれ画策するのである。明治の日本は,方言の多様性に悩まされ,国家的統一や教育の効率化を図るために標準語を策定しようと必死になった時期がある。沖縄の標準語励行運動は,国家的統一がイデオロギー的に必要だった戦前にはじまっている。

明治期の日本人も,戦前から戦後にかけての沖縄県民も,威信言語に乗り換えていくことで得られる経済的・教育的・イデオロギー的メリットを感じていたはずである。これは,自由意志に任せた結果の,民主的な選択が行き着いた先なのだろうか?我々の自由意志の結果,言語が消滅していくのであれば,それは環境への適応の一種なのだから,悲しむべきことでも抵抗すべきことでもないのではないか?
この問いに対する答えは,次号で詳しく考えてみたい。

消えて行くコトバ,消えて行く私たち(下)
(『春秋』2017年8/9月合併号)

言語が消滅することは問題か?

現在,世界で話されている言語は6,000以上ある。そのうち,地球上の95%の人口は上位300言語,すなわち全言語の上位5%の言語を話す。残り5,500以上の言語を,たった5%の人口で分け合っている計算である。つまり,世界に存在するほとんどの言語は少数言語であり,それだけ消滅の危機に瀕しているといえる。

しかし,である。素朴に考えてみて,言語や方言が減ることは問題なのだろうか?かつて,方言の多様性に悩まされた明治政府が,国家的統一と教育の効率化を図るために標準語の策定に必死になっていたことは前号で述べた通りであり,このような悩みは,近代国民国家で等しくみられたものである。さらに,私たちは今,かつてないほど世界とつながって生きている。国境はたいした意味を持たなくなりつつあり,方言どころか,異なる言語を話す人たちが日常的に交流する社会に生きている。コミュニケーションの効率化を考えれば,言語の多様性は邪魔であり,壁である。世界の人々が,共通の言語を使うようになれば,これほど便利なことはないように思える。少数言語の急激な減少はグローバル化と同時に始まっているといってもよく,私たちの自由意志に任せた結果,なるべくしてなったように思える。

前号は,「言語や方言が減ることは問題か?」という問いかけで稿を閉じた。本稿では,この問いを,できるだけ多角的にとらえ,複数の視点を提供することを通して,読者の方とともに考えてみたいと思う。

思考実験

私は毎年,九州大学の1-2年生を対象にした授業で,以下の2つの問いを別々の機会にそれぞれなげかけることにしている。


① 「少数言語や方言が消滅することは問題か?」
② 「グローバル化に備えて,日本語を廃止して英語に切り替えていくことに賛成か?」

このうち,①について「問題あり」と「問題なし」は,毎年ほぼ半々に分かれる。「問題なし」と考える学生は,言語をまずコミュニケーションの道具だと主張する。「少数言語や方言が減ることで,意思疎通がより進むので,誤解も減り,経済的にも(翻訳などの)負担が少なく,教育効果もあがるから,少数言語話者が少数言語を手放すのはむしろ自身にもメリットがある」というのである。

では,①について「問題あり」と考える学生たちの意見はどうだろう?九州の学生らしく,自らの方言を引き合いにだして,方言でなければ表現できないこともあること,方言が消えると大切なアイデンティティの一部が消えてしまうかもしれないことなどを語る。言語が,単にコミュニケーションの道具として存在しているわけではないと考えているのである。

面白いのは②に対する反応である。これまで,②に対して肯定的な態度を示した学生は1人としていない。①の少数言語の消滅に関しては「問題なし」とした学生も,②については「問題あり」と答えるのである。

この思考実験は,2つのことを示しているように思う。まず,言語がコミュニケーションの道具以上の「何か」である可能性があると,顕在的にであれ潜在的にであれ,我々は感じているということ。①の質問に答える際にはこのことに気づかない学生であっても,②では即座に気づくのである。言語が単にコミュニケーションの道具なら,日本でしか通用しない日本語よりも,世界で使われる英語に切り替えるほうが明らかに効果的であるが,学生たちは,「英語話者にすべて合わせて日本語を手放すべきではない」「「おもてなし」や「もったいない」など,日本語でしか表現できないことがある」「日本語がなくなると困る」「それは面白くない」など,論理的というよりも多分に情緒的な反論をする。ようは,アイデンティティを否定されることへの反論である。

思考実験からわかる2点目は,我々は直接の当事者にならない限り,とても無関心になる傾向にあるということである。学生の半数は,少数言語の消滅についてはコミュニケーションの効率性の観点を持ち出して賛成しておきながら,一方でその究極ともいえる英語への収束に対しては,日本語の独自性やアイデンティティを持ち出して抵抗する。これは論理的に矛盾している。そこで私は,こう尋ねる。

「なんで,君は日本語を手放さなくていいのに,少数言語話者は少数言語を手放してもいいんだろう?」

言語の部分的消滅

ところで,読者の多くは,先に見た②の状況,つまり,日本語が英語にとってかわられる状況が実際に起こるなどとは思わないだろう。確かに,日本の国語たる日本語が,少数言語のように完全に消滅していくことなどありえない。しかし,2017年の日本で現実に起きている,「日本語の部分的消滅」の例がある。

私が勤める九州大学をはじめ,多くの大学では,学生が履修を決める上で参照する授業計画(シラバス)を,教員が英語で書くことが求められている。そのようにすることで,グローバルな尺度で見た「大学ランキング競争」において有利な位置を占めることができると信じられている。たとえ国文学の「もののあはれ」に関する授業であったとしても,英語でシラバスを用意しなければならない。さらに,一部の授業を完全に英語だけで開講するというノルマも,私の大学にはある。それどころか,すべての授業を英語だけで行う大学や学部も増えてきている。このようなことは,大学だけでなく,企業における英語使用など,さまざまなところでぽつぽつと起こっていることである。日本語の使用領域が,かつてに比べれば明らかにせばめられつつある。

もし,このような状況に対して嫌悪感を抱いたり,窮屈さや困難さを感じることがあるなら,少数言語の話者が抱く嫌悪感や窮屈さ,困難さはこの比ではないことを指摘しておかなければならない。

言語を失うということ

言語が消滅する状況を考えた時,多くの人は,最後の1人が死亡して,話者が文字通りいなくなってしまう状況を想像すると思う。その最後の1人になるまで,話者たちは何も不自由を感じず,言語を当たり前のように使い続けているのだろうか?

それは否である。言語を当たり前のように使い続けていられなくなっていくプロセスが必ずあり,少数言語の話者たちの苦悩はそこにこそみられるのである。日本語が,消滅の危機に瀕した少数言語だったと想像してみよう。話者が減っていくという状況の背後には,おそらくあなたの下の世代が,日本語の使用をやめて,別の威信言語に乗り換えてしまっている社会がある。威信言語が圧倒的な地位にあり,あなたの母語(つまり日本語)が自由に使える範囲は,じりじりと狭められていくだろう。銀行に行っても,役所に行っても,新聞をめくっても,テレビを見ていても,日本語を話すあなたのことは誰も考慮しない。下の世代の威信言語で対応することを迫られるはずである。すでにみた大学や企業における英語の侵出の比較にならない,圧倒的な威信言語の侵出を想像してほしい。

このような状況を生き抜くために,あなたはバイリンガルとして威信言語も使用していかなければならないだろう。しかし,バイリンガルになっても,生きていくためのスタートラインに立ったにすぎず,それで特別に有利に働くことはない。威信言語をうまく使えないことで,差別されるかもしれない。威信言語を母語として使う下の世代から,軽く扱われるかもしれない。

これは,前号でみた沖縄県のかつての状況に一部重なる。戦前から戦後(確認できている限り1950~60年代まで)にかけて,沖縄県では「方言札」という,教育現場における琉球語の使用に対する罰則のシステムが存在したことを前号で述べた。かつて家庭で当たり前のように琉球語を使用していた子供たちは,まず学校教育という場面で母語の使用機会を奪われ,母語を使うということに対するネガティブな社会的評価が決定的になっていった。彼らは,下の世代には母語を使うことを「自ら」やめ,結果的に言語の取り換えは猛烈に進んだ。私の親の世代から私の世代にかけて,話者数は激減したのである。

消滅危機言語の問題は見えにくい

少数言語の話者たちは,一見すると自らの意志で威信言語に乗り換えていくように見えるだろう。しかし実際は,威信言語側の,多数派の論理の中で,そうせざるを得ない状況に追い込まれ,疎外感を感じながら自らの言語を手放していくのである。このように,言語の消滅は,一見すると自由意志に任せた選択の結果のようでありながら,実際は少数派の「排除」「疎外」という暴力的な論理で進んでいく。目に見えてわかりやすい暴力ではないから,何ら重大なことが起きているようには見えないのである。

消滅危機言語の問題を見えにくくするもうひとつの要因がある。言語の消滅が,沖縄の状況のように,母語話者の世代からその子の世代にかけての断絶として生じる場合,子の世代は苦しみを感じることがないし,気づくことがない。むしろ,親の世代の母語を嫌い,カッコ悪いものだとみなし,遠ざける側にまわる。上でみた苦しみを一手に引き受けるのは,母語話者の世代だけである。社会の多数派が恒常的に感じる苦しみではないために,そしてその苦しみも消滅危機言語を話す世代がいなくなることで完全に消え失せる(と多数派が考えている)から,社会全体の問題になることがないのである。少数言語話者が排除され,疎外されながらも,人権問題になりにくいのはこのためである。

言語の消滅は問題か?

「誰か」の言語の消滅を引き起こす論理は,すなわち多数派の論理は,言語だけでなく,あらゆる属性の弱者に牙を向く。難民,移民,障がいを持つ者,性的少数者,子育て世代,女性,非正規雇用者,考えればきりがない。言語が減ることの背景に,多数派の論理と少数派への無関心が存在する。少数言語が絶望的な勢いで消滅していくことと,弱者が切り捨てられていく我々の社会の論理は無関係ではない。少数言語の急減という現象は,我々が持つ暴力的な論理の表出の1つの例にすぎないのである。

言語が減ることは問題か?この問いに対して,当事者の立場から考えることを一切やめ,他人事として,多数派の側からそのメリット・デメリットを考える人もいるだろう。あなた自身は,「誰か」の言語の消滅でなんら直接的なデメリットを被らないかもしれない。しかし,それはあなたが「言語の話者」という属性において,多数派の側,威信言語話者の側にたまたま立っているからにすぎない。あなたは今,弱者ではないかもしれない。しかし,どの文脈で弱者になるかは誰にもわからないのである。暴力的な論理を抱えた社会に生きている事実は,変わらないのである。